「裁判官」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? ごく普通の市民であれば、少し冷たいけれども公正、中立、誠実で、優秀な人々を想起し、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、信頼できると考えているのではないだろうか。 残念ながら、日本の裁判官、少なくともその多数派はそのような人々ではない。彼らの関心は、端的にいえば「事件処理」に尽きている。とにかく、早く、そつなく、事件を「処理」しさえすればそれでよい。庶民のどうでもいいような紛争などは淡々と処理するに越したことはなく、多少の冤罪事件など特に気にしない。それよりも権力や政治家、大企業等の意向に沿った秩序維持、社会防衛のほうが大切なのだ。 裁判官を33年間務め、多数の著書をもつ大学教授として法学の権威でもある瀬木氏が初めて社会に衝撃を与えた名著『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)から、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていこう。 『絶望の裁判所』 連載第40回 -AD- 『『もし息子が市民運動に参加していたら』『もし家族が交通事故で亡くなったら』…裁判所の“常識”を知らないと訪れる恐ろしい結末』より続く 空港騒音差止め訴訟最後が空港騒音差止めである。確かに、空港は一般国民が利用するものであり、無条件に差止めが正しいということにはならないかもしれない。しかし、逆に、たとえば睡眠を妨げるような深夜の大きな騒音まで空港周辺の住民が甘受しなければならないものではなく、両者のバランスを取った適切な線引きが必要なのである。 だが、第38回で紹介した大法廷判決は、およそ差止めは認めないという乱暴なものであり、空港差止め訴訟は問答無用で切り捨てるという姿勢が明らかである。実は、この事件については、第一小法廷において限定的差止めを認める方向が決まっていた。 ところが、なぜかこれが大法廷に回付されることになり、第38回で紹介したような結論に至ったのである(毎日新聞社会部『検証・最高裁判所──法服の向こうで』毎日新聞社)。その背後に政治的な動きや思惑があったことは想像に難くない。 この判決は、差止めを一切認めない理由付けに「航空行政権」に関わる事柄だからという理屈を用いているが、これについても学者からは批判が強い。こんな論理を用いれば、国の事業はほとんどが公権力の行使だということになってしまい、一律に民事訴訟の対象から外されてしまうことになるからだ。 また、「行政訴訟ができるか否かはともかく」という言い方も実に欺瞞的である。どのような行政訴訟ができるのかは一切明らかでなく、実際、学者たちも、それは難しいと考えており、砕いていえば、「行政訴訟については、さあね、知らないよ(知らねえよ。知ったこっちゃねえよ)」といっているに等しいからだ。 さらに、差止めを全く認めない以上被害が継続することは明らかであるにもかかわらず将来の損害賠償請求を一切否定するというのも問題が大きい。本来は、将来の損害賠償も一定期間、たとえば数年間の分を認めた上で、もしも国が損害を減少させた場合には、国のほうに民事執行法35条の「請求異議の訴え」を提起させた上でその分の強制執行を止める、という形で事案を解決するのが当然なのである。 被害が過去のものとなった時点で被害者のほうから再度損害賠償請求を起こさなければならないというのは、理論(民事訴訟法学でいうところの「提訴責任の適正な分配の原則」)にも、正義にも反する。なお、このように被害者に損害賠償について再度の訴えを余儀なくさせることについては、差止めを問答無用で認めないという態度と相まって、全国各地における関連訴訟提起押さえ込みの意図が露骨に透けてみえる。 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行され、たちまち増刷されました。 |